STORY

vol.01

加藤登紀子

歌手

 いくつもの困難や危機を乗り越え、自分の生き方を選びとってきた人たち。 「ゆふてん」は人それぞれの場所にあります。
 スペシャル・インタビュー、 第1回の登場は、歌手の加藤登紀子さん。

 第二次世界大戦の終戦後、ハルビンから家族で引き揚げてきた彼女は、やがて現役東大生として初の歌手デビューを果たし、学生運動で収監された藤本敏夫と獄中結婚。その後、最初の出産で一時芸能界を離れるが、すぐに復帰。3人の娘を育てながら、音楽を胸に世界を飛び回る、日本を代表する歌手となりました。

PROFILE

加藤登紀子 Tokiko Kato

1965年東京大学在学中第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。1966年「赤い風船」でレコード大賞新人賞、1969年「ひとり寝の子守唄」、1971年「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞。以後、80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出してきた。国内コンサートのみならず、1988年、1990年のカーネギーホールをはじめ、世界各地でコンサートを行っており、1992年には、芸術文化活動における功績に対してフランス政府からシュバリエ勲章を授けられた。近年は、FUJI ROCKFESTIVALなど野外フェスにも意欲的に挑戦し、世代やジャンルを超えた活動で注目を浴びている。
2015年はデビュー50周年を記念し、ヒット曲「百万本のバラ」の生まれたラトビアのリエパーヤ交響楽団と日本ツアーおよびラトビアでコンサートを行った。 2017年は美空ひばりとエディット・ピアフの曲をオリジナルアレンジで歌うコンサート・ツアーを敢行中。

「お守りさん」との獄中結婚

21歳のときにアマチュア・シャンソンコンクールで優勝されて、東大在学中に歌手デビューされています。その前に、コンクールに初挑戦されたのは20歳のときだそうですね。

加藤

19歳のとき、エディット・ピアフを知って、急いで恋をしたの。ピアフを知って、恋へと大胆になれたのね。それで20歳の時コンクールでピアフを歌ったけど、優勝できなくて。私にはまだまだピアフを歌い尽くすことができないとも感じていました。

その初恋はどんな恋でした?

加藤

自由恋愛主義者で、結局3年で別れちゃったけど、楽しかった。

私の母はピアフと同い年で、満州から命からがら私たちを連れて逃げてきましたから「命さえあれば自由に生きれば良い」と考えていた人でした。

ところが、3歳上の姉が恋人を手をつないで町を歩いただけで怒ったことがあるのです。でも、私のときは違いました。
あるとき、彼が風邪をひいて熱を出していたので、私の部屋のベッドに入れて介抱していたのです。添い寝していたら、母が部屋の戸をぱっと開けた。それは驚きましたよ。叱るのではないかと思ったら「あらあら、よけいに熱が上がっちゃうじゃない」と言って、笑って戸を閉めちゃったんです(笑)。

それは姉のときのことと比較すると、不思議なことだったのですが。

おかあさまは、登紀子さんの心の底にある情熱を見ていて、この娘のことはもう止められないと思われたのかもしれませんね。

加藤

どういうことだったのでしょうね。そんなに自由に見てくれていた母なのに、私はそれでも束縛を感じたの。その頃「12時には帰ってきなさい」と言われて「ママにそんなこと言う権利はない」と言い返しました。それで絶対に12時には帰らない決心をしたの。夜中の代々木駅でわざと12時過ぎるのを待ったりしてね、寒いのに(笑)。数日の抵抗でした。
「家を出たい」と言ったら「どうぞ。いいわよ」と。「その代わり、私があげたものは全部置いていってちょうだい」と言われました。洋服は全部母親が縫ってくれたものでしたから、裸になって町に出ていくわけにはいかないでしょう。それで家を出るのもあきらめた。
じゃあ、どうしたら束縛から逃れられるか。「結婚してしまおう」と思ったのね。

それは初めての恋人と。

加藤

そう。それで、母親が使っていない鍋とか皿を、少しずつこっそり部屋に溜め込んで(笑)。ある日「結婚する」と言ったら、母は「女にとって結婚は不利よ。できるだけ遅いほうがいい。自分の仕事をしていくことをまず考えないと。
間違っても男についていくなんて思っちゃだめ」と言われました。後になってそれを父に言ったら怒ってましたけど。
それで結局、その結婚はあきらめました。

おかあさまはとても冷静に登紀子さんを見ていらっしゃったのですね。

加藤

そうですね。そのときとは反対に、結婚した藤本敏夫とのことは、たとえ彼が収監されても応援してくれましたね。
母は藤本のことを「登紀子のお守りさん」と言っていました。
女は「この人」という人ができると、とても落ち着くものだと。その大事な一人をなくしたときに、あなたはどうなってしまうかわからない。…そこまで言いましたね。

世間を驚かせた「獄中結婚」の裏側では、お母様の心のサポートもあったのですね。

語り合い、本音を聞いて、やり過ごす

藤本さんが出所してこられてからは、幸せな結婚生活が始まったと想像します。

加藤

藤本は出所してきたとき、もう30歳を過ぎていました。そこから振り出しの3年間は社会的にも苦闘だったと思いますし、結婚生活も悩み多き時期だったと思います。彼は一般常識にはとらわれない人でしたが昭和の男の気質というか「俺は古い男だから」と言うのが口癖でした。あるとき私に「仕事を辞めろとは言わないが、その金は一切使うな。俺の稼ぎで暮らせ」と言ったのです。

それはとても意外だし、衝撃ですね。

加藤

今でこそ共働きは当たり前の時代ですが、それでも「男が一家の主」という意識は強かったし、世間的にも彼に「どうせ女の稼ぎで食ってるんだろ」と言う人もいたのでしょう。

そこで登紀子さんはどうおっしゃったのですか。

加藤

彼のその言葉は「格好いいな」と思ったけど、「やっぱりそれは無理」と言いました。どぶに捨てるほどお金があるわけではないし、精一杯、私なりにバランスをとって、ベビーシッターさんを雇ったりしていたのですから。
その反面、男の沽券というものを大事にしてあげないといけないとも思ったのです。
私は彼がいない間に長女を産み、家庭の形をつくって、戻ってくる彼を迎えました。彼のためにと頑張ってきたのに、私がひとりで作り上げたことは彼にとっては辛いことだったのです。家具ひとつとっても、私が勝手に選んだものですから。そういうことのすべてが嫌だったのか、と、泣きましたね。

そんな辛い時期があったのですね。それについてはご夫婦でどう答えを出されたのですか。

加藤

語り合って、受け入れて、答えはそのまま「やり過ごす」ことでした。

語り合うのは大事。お互いの本音を知ったわけです。でも、そこはいったん、日々のなりわいのなかでやり過ごしてきたわけです。

ただ、そこでの大きな対話があって、その後、彼は鴨川に家を建て、お財布も別々にするという二元生活をして、お互いに楽になることができました。
別居から離婚へという流れではなく、共に夫婦で居続けるために別居する、居場所が二つあるという生活を選んだのです。
いろんな形の結婚があっていいのだと思うのです。

ではそれ以降はまったく離婚の危機もなかったのですか。

加藤

いよいよもうおしまい、ということは一度だけありましたね。そのときは「別れたい」と私から一度だけ言ったのです。そうしたら彼は「ふん、そうか。そうしよう」と、彼は1秒で答えました。「そういうことを女が決めてしまったら、男は抵抗できないものだ」と。じゃあ、今夜はいい酒を飲もうと言って二人で泣きながら飲んで、翌朝、離婚届を出しにいかなくちゃいけない、と思いました。

でもいつも通りに私が朝ごはんをつくったのです。そうしたら、味噌汁を一口飲んで、彼が「ああ、うまいなあ、この味噌汁」って言ったの。その言葉がすべてをないことにしてしまった。その一瞬が「ゆふてん」だったのかもしれませんね。彼はそのひと言で私への感謝を表し、これまでの日常の幸せを瞬時に思い起こさせたのね。古い男だけど、自分の気持ちを伝えるのがうまい人でした。策士だわね(笑)。

そこには藤本さんにも、登紀子さんを失ってはいけないという根本的な気持ちがあったように思います。この女しかいない、と。

加藤

男の沽券を守ってあげられるのは女だけですよ。子どもを見守るように、プライドを守ってあげないといけない。目の前でこてんぱんに言ってしまうと終わります。男と女は決裂しなくていい。「うん、そうね。あなたはそう考えているのね」と受け止める。そして言わせておいて、それに従わずに日常を繰り返していればいいの。

見えないところでしっかり結ばれた絆だったのですね。お亡くなりになった後は本当に寂しかったと思います。

加藤

そうですね。他界してからは、一人の朝ごはんが寂しかったですね。朝ごはんの度に少しまいっていました。

あるとき、夫の家があった鴨川へ行ったら味噌樽が高床下の縁の下にたくさん見つかったんです。「藤本さんが仕込んでたんだ」って。

発酵していて美味しかった。それから朝ごはんが寂しくなくなりました。

ゼロから始め、瞬間に決定する

今、「結婚」しない若い人たちが増えていますけれど、どう思われますか。

加藤

まず今の若い人たちを見ていて思うのは、小さいときから「自分とは何者か」とか「どんな自分になりたいか」とか、自分をつくることが大人になることだと思いすぎている気がしますね。そして出来上がった自分に見合う人と結婚しなくてはと思いすぎている。

生き物は瞬間に感じ、瞬間に決定するもの。恋愛は知らない間に魔法にかかるもの。相手を受け入れ、染まってしまう、ゼロになれることを否定しないほうがいいと思います。その相手に鏡のように自分が映っているのだから。ゼロになり、ゼロと向き合う経験が人を成長させるのです。

「こうでなくちゃ」などと、みんな背負い込みすぎ。5年後の自分はこうありたい、なんて計画通りにはいかないから。

努力型のライフイメージに日本人は慣れ過ぎています。そんなもの捨てて、びっくりするような未知なる自分に出会うほうがよっぽど楽しいですよ。

そういう圧倒的な自己肯定感はどこから生まれるのでしょう。

加藤

今、アドラーの心理学が流行っていますね。概ね、フロイトは過去の積み重ねが今のあなたを作っている、という理論。アドラーはそうではなくて、今の精神状態は過去のせいではなく、今のあなたのものだ、という考え。嫌なことはやめればいいし、捨てちゃえばいい、愛されなかった気持ちに甘えなくていい、と前向きなところが人気なのではないかしら。

過去を言い訳にする、エゴを築き上げるのはヨーロッパ的な思想に多い気がします。せっかく日本人なのだから、虚であり空であることにも目を向けてみたらいいでしょう。自然は常に移ろって、でも全体として限りなく永遠。じたばたしなくても限りなく存在している。雨が降ろうが、風が吹こうが、ここにいある私は揺るぎなく大丈夫だと思うこと。悲しいとか寂しいという感情も、私といういれもののなかに起こった事象、と捉えるんです。

登紀子さんの歌声はまさにそんな大丈夫な感じがします。

加藤

あるとき日本語のわからないアメリカ人に「なんと言って歌っているのかわからないけれど、君の歌は「alrightと聞こえる」って言われたことがあります。

その存在の揺るぎなさは、どちらかといえば、男性より女性の役割にふさわしい気がしますね。

加藤

そうですね。女性ならではだと思いますね。不安定なものの面白さ、アトラクティブさもあるけれど、女はいつも揺るぎなくあったほうがいいわね。

うちの母を私は「船長」だと思っています。それに対し父は「暴れる海」だった。でも海なくして船は浮かばない。海は運命を決めていたけれど、母はそこで船を安全にしておくことで精一杯だった。

流れは自分では選べない。生きて行くために偶然のように選択肢が現れて、それを受け入れていく。ゼロになって決断する。ひらめきが次の人生のページを開けてくれる。その繰り返しがあればいいのです。

INFORMATION

最新ライブ アルバム2枚組
「ひばりとピアフ」

価格:3,000円
発売日:5/28(日)
お問い合わせ:トキコ・プランニング tel.03-3352-3875

「加藤登紀子コンサート~人生の始まりと終わり ひばりとピアフ」

5/28(日) 神戸国際会館こくさいホール
6/4(日) 山形・シベールアリーナ
6/11(日) 渋谷・Bunkamuraオーチャードホール
お問い合わせ:トキコ・プランニング tel.03-3352-3875

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インタビュー・テキスト:森綾 撮影:ヒダキトモコ

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